
最近、ケビエンに行ったhiroから届いた写真。
なんか子どもの頃に物語の中で見たハックルベリーの家みたい。へぇ、本当にこんな家があるんだ。
なんで、こういうのを見るとドキドキするんだろう。
世界のあちこちで、ひとつひとつのことばにあいを。
朝からカンカンに晴れていて、最後の洗濯物もお昼前には乾きそう。メリブラウスに着替えて、ラップラップを腰に巻いて、椰子のバスケットにお花を入れて、散歩に出掛ける。3人のかわいらしいお供がくっついてきた。 最後の一日にすることは決めていた。そのためには、村の真ん中の道を歩いていくことになるから、間違いなく挨拶にもみくちゃにされる。それも知っていたから、 ちょうど村の人とのお別れの挨拶にもなっていいと思っていた。 |
道すがら、明るい水色の看板のイライラ教会の前を通る。イライラとはその辺りの地名だけれどそれを見るたび、イライラする気持ちからはほど遠いこの町の人たちに、日本語の"イライラ″に相当する言葉はあるのかな、って思う。その日はあんまり日差しが強かったので、 途中2回休憩をした。同じ道のりがお供の子どもたちの小学校への道だから、休憩する木陰も決まっているらしい。あとどれくらい?、あの角を曲がったら、と同じような問答を何度か繰り返した。 |
1 時間後、ようやくおばあちゃんのところへ辿り着いた。真新しい虹色のシーツですぐにわかった。しばらく腰を下ろして、心の中でお話した。子どもたちにもこういう気持ちがわかるのか、さぁ、行こうかと私が声を掛けるまで、ただ静かに一緒にいてくれた。 私の住むこの町には、なんとも言えないゆっくりとした時間の流れがある。世界中みんな、同じだけの時間を持ってるはずなんだけど、ここの人たちはあんまりそれを切り刻んだりしなし、従ったりもしない。悠々と時間の上で暮らしている。時間があるっていうのは、いろんな余裕みたいなものを生み出してくれるのかもしれない。散歩ひとつでもらう、惜しみない優しさ、惜しみない挨拶。この気持ちを、この景色を、懐かしく想うんだろうな。 |
ココポで過ごす最後の夜。
夕焼けの時間を過ぎると、家の前に用意されたテーブルの 上に、一皿一皿食べ物が集まってくる。水浴びを終えて、そろそろお腹を空かせた子どもたちもテーブルに集まってくる。家族で小さなlotuをして、感謝の 歌を歌う。 真ん中に用意された白い椅子に座るように言われると、Mirriamがこっそり用意した椰子で編んだ冠を、私と hiroの頭に飾った。それを合図にカードや手作りのプレゼントを膝にのせてくれた。おいおい、俺はまだ居るよ、aiが日本に帰るんだよ、とhiroは言 う。いつもどってくるの、と子どもたちは私に聞いた。"sampelataim bihain(いつかね)"、と言うと、それだけで充分な答えみたいだった。"日本のお菓子を送るよ"というと、嬉しそうな顔をして"いくつ?"と聞いて いた。ちびすけ家族も今日はご馳走にありつけて嬉しそう。 |